新・記憶メカニズム発見―応用展開に夢ふくらむ

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  • 2016/01/29
  • 理学研究科
  • 小林曉吾研究員
  • 森郁恵教授

名古屋大学大学院理学研究科の森郁恵教授と医学系研究科の貝淵弘三教授らの共同研究チームは、線虫をモデル系とし、単一神経細胞による記憶メカニズムを世界で初めて同定することに成功しました。
現在のところ、実験的および理論的にも支持を得ている記憶・学習の成立機構には、神経回路網内でのシナプス(多細胞間の相互作用)によるシナプス説が有力とされています。
今回、研究チームは、独自に開発した実験系およびその解析結果から、神経細胞間の相互作用を基盤とする神経回路レベルでの記憶以外にも、単独の神経細胞レベルでの記憶(単一神経細胞記憶)が存在することを分子レベルで明らかにしました。
これらの記憶制御分子を治療ターゲットとすることで、記憶に関する神経疾患や精神疾患に対して、新たな創薬開発への展開が期待されます。
本研究成果は、「Cell Reports」に2015年12月24日に公開されました。→ 全学プレスリリース

「無駄なことは一つもない」 基礎研究に打ち込む若手研究者らの挑戦魂、新説を生み出す。

「人は、快・不快といった感情を持ち、それに動かされて、日々行動しています。」
名古屋大学大学院理学研究科の森郁恵教授ら研究グループは、精神機能のメカニズム解明に努める。用いるのは、モデル生物の線虫 C. elegans(シーエレガンス)。この線虫 C. elegans の神経系で機能する多数の分子は、ヒトでも同じ働きをすることが知られているのだ。


森教授らの方法は、飼育温度に依存した線虫 C. elegans の行動(個体)の観察から、ニューロン(神経細胞)を同定し、遺伝子(分子)を特定するという3段階。特に記憶・学習メカニズムに関与する神経系機能に焦点をあてる。


現在、動物の記憶・学習メカニズムは、神経回路網内での細胞間シナプス相互作用によるシナプス説が有力とされているが、本研究成果は、その定説を書き換える新たな発見となった。つまり、単独の神経細胞で記憶している、ということが、分子レベルで明らかになったのだ。


基礎研究成果の応用展開は、計り知れない。本研究の場合も、その一例として、記憶メカニズムの完全解明や精神神経疾患の治療に貢献できるようになるだろう。


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「線虫の行動」と言えば、ここ、森研究室です


「こんな小さな生き物でも、報酬の有無によって、行動を変化させることができるのです。」

体長約 1 mm の透明な体をもち、自然界では土の中に生息している、という線虫 C. elegans


(左)培地上で白い点様に浮かび上がる、線虫 C.elegans(右下)1匹あたりの姿


ヒトとは似ても似つかない形体を有するものの、線虫もヒトのように、快・不快を生み出すセロトニンなどのモノアミン類によって制御されていることが分かっている。

線虫は、ヒトでは調べるのが困難とされる神経細胞の研究で活躍するモデル生物なのだ。


ヒトの場合、神経細胞の数は、脳全体で一千億以上もある。一方、線虫の神経細胞の数はたった302個、その全ては既に同定されており、神経細胞にアルファベット3文字の名前が付いている。

例えば、AFDニューロンは、森教授らにより同定された温度受容細胞。線虫 C. elegans の温度受容をつかさどる神経回路モデルの最も上流に位置し、線虫が温度に依存して移動すること(温度走性)に関与している(図1)。(Mori and Ohshima, Nature (1995) 376, 344-8



図1. 温度走性の神経制御モデル(出典:森研究室 研究紹介1 森研究室HP 2016年1月28日に利用)



—可視化で明らかになった、「温度」依存の本来の意味


「可視化の技術を神経回路研究でも実用したいと思いました。」

森教授ら研究グループは、温度変化に伴う行動の変化を可視化する技術を導入し、神経細胞内のカルシウムイオン濃度の変化が、その個体の行動の変化に依存することを見出した。カルシウムイメージングによる神経活動計測時代の幕開けである。


2004年当時、同研究グループでポスドクだった木村幸太郎博士らは、カルシウムイオン濃度によって蛍光の明るさが変化するセンサー分子を用いて蛍光強度の強弱をモニターし、AFDニューロン内のカルシウムイオン濃度の強弱、つまり神経活動の変化を測定したのだ(図2)。(Kimura, et al. Current Biology (2004) 14, 1291-5



図2. カルシウムセンサー分子を用いたAFDの活性測定(青色:活性前/低Ca濃度、赤色:活性後/高Ca濃度)出典:森研究室 研究紹介3 森研究室HP 2016年1月28日に利用)



そこで明らかとなったのは、いままで知られていた行動の温度依存性―温度走性行動が「温度」依存であること―は、「AFDニューロンの活動」の温度依存性に由来していた、ということ。

線虫は15℃~25℃の範囲で活動するが、15℃で飼育された線虫は低温側(15℃~)で、25℃で飼育された線虫は高温側(~25℃)で、AFDニューロン内のカルシウムイオン濃度が高かったことが分かった(図3)。つまり、AFDニューロンは温度を感知しているだけでなく、何かしらの機能があるがために、飼育温度に依存することが分かったのである。



図3. 23℃で飼育された線虫 C. elegans は、60分後、23℃側へ移動した。



「びっくりした。AFDで温度を感じているだけでなく、記憶もしてるってこと?」

森教授らは、飼育温度に依存したAFDニューロンの神経活動性から、記憶メカニズムの定説を疑った。―しかし、いかにして実験で調べることができるのか? AFDニューロンに記憶した情報が保存されているのならば、神経回路網のある部分を切断しても記憶は残ったままだろう。


新実験系を立ち上げる必要がある


「線虫を使った研究で、記憶メカニズムを解き明かしたい。」

同研究グループの小林曉吾研究員は、理学部4年生の研究室選びの際、森教授らの研究に興味を抱いた。その後、「AFDニューロンで機能する分子の解析」をテーマに意欲露わに研究に取り組みだしたものの、学部4年生の終わり頃、研究結果に行き詰まりを覚えていた、と話す。


森教授は、そんな小林研究員に、別テーマを提案。

上記のような「AFDニューロンの活動」の温度依存とその温度に依存した行動である温度走性行動についての謎を解き明かすには、AFDニューロンの「記憶形成前」を確かめるべく新実験系を立ち上げる必要があることを話した。その後、小林研究員は新たな挑戦へと修士課程に進学し、線虫 C. elegans の受精卵から温度感知に関係している神経細胞を分離するため、初代培養系を作ることに取り組みだした。


しかし、線虫 C. elegans の初代培養の作成方法はそれほど普及している方法ではなく、また、小林研究員も当時培養細胞を扱う基礎的な技術を持ち合わせていたわけではなかった。そうして、論文で紹介されている方法に従って初代培養系を作るも、上手く行かない日々が1年以上も続いた。


実験中の小林研究員


「それでも、培養液の組成が大事だということが分かってきました。」

小林研究員は試行錯誤に挑戦を続けるうち、線虫 C. elegans の電気生理の論文にヒントを得た。電気生理の実験で使われる手法は、生きた線虫の体内にある細胞を体外に露出させ、そこに突き刺した電極から電気信号を得る、というもの。このとき、体外に露出した細胞をしばらく生かすために細胞外液を作成するのだが、実に、この細胞外液の組成を参考に培養液を作成したところ、AFDニューロンの初代培養系の確立に成功したのだ。


そして、カルシウムイメージングで検証したところ、培養温度に依存した温度応答が観察された。つまり、AFDニューロンにおける記憶形成は、他の細胞との相互作用を必要とせず、単独で温度記憶を成立させている可能性が高いことが示された(図4)。



図4. 神経接続ありの生体内のAFDニューロン(左)と神経接続なしの初代培養AFDニューロン(右)とを比較。神経接続がなくとも、細胞が単独で温度を記憶。



ついに、遺伝子(分子)の特定へ


「更なる研究の手がかりへ、そして、ヒトでの応用例に向けて、分子レベルでの解明は必要なんです。」

小林研究員は、AFDニューロン単独による記憶形成について、分子レベルで解き明かすために遺伝子変異体を用いた解析を実施した。線虫 C. elegans とヒトに共通して存在する、記憶に関与する遺伝子を対象に確認したところ、特に深刻な異常を見せたものがあった。cmk-1遺伝子の機能欠損変異体である。


このcmk-1遺伝子は、カルシウム‐カルモジュリン依存性プロテインキナーゼ(CaMK)という酵素をコードする。CaMKは、ヒトにもI とIVの二種類が存在し(CaMK I/IV)、脳でタンパク質をリン酸化する酵素として機能していることが知られていたが、リン酸化の標的となる分子は不明であった。

そこで、共同研究チームである医学系研究科の貝淵弘三教授ら研究グループに、リン酸化プロテオミクス解析を依頼。結果、ヒトのCaMK Iタンパク質のリン酸化修飾を受ける分子として、線虫の全タンパク質の中から38個のタンパク質が同定できたのである。


「学部4年生の頃の研究がここで生きてくるなんて!」

小林研究員は、その後すぐにも、これら38個のタンパク質の中でも、Rafキナーゼの欠損がAFDニューロンの記憶に異常を引き起こすことを突き止めた。Rafキナーゼに関するデータは、実は、小林研究員が学部4年生の頃の研究テーマで得ていたものだったのである。


おかげでトントン拍子に研究は進み、神経細胞における新機能が明らかになった。単一神経細胞記憶に重要であり、かつ、線虫にもヒトにも共通する分子経路(CaMK I/IV­–Raf–MEK–ERK–MED23)を見出したのである(図5)。



図5. 線虫 C.elegans の単一神経細胞記憶に関与する分子経路、まとめ



「無駄じゃなかったのね!」

森教授も喜びの声をあげた。基礎研究の、コツコツ・・というイメージはその通りかもしれない。しかし、無駄なことは一つもないのだ、と気付かされる。

基礎研究の応用展開についても、例えば、創薬の場面で治療の標的となる分子の特定につながるかもしれない、と小林研究員は目を輝かせた。


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「やることは、全部ガラス張りにしよう。」

森教授は、学生ら若手研究員と雑談を交えたフランクなディスカッションで、研究目的、手法を決めていき、得られた結果を厳しく批判しながら研究を進める。博士を取ったら一人前、そうした人材へ育てるメンターなのだ。


「ディスカッションは楽しい。」

小林研究員の言葉にもあるように、メンターからの力強いサポートは、必ず成果へと結びついていくだろう。失敗にもくじけず、チャンスとして粘り強く立ち向かえるようになる。


研究者としての基準は下げない。

—成長あるのみだ。

(梅村綾子)


研究者紹介

森 郁恵(もり いくえ)氏【名古屋大学大学院 理学研究科 教授】

1980年お茶の水女子大学理学部生物学科を卒業後、1982年文部省国際交流派遣制度の留学生として英国サセックス大学に留学し、1983年お茶の水女子大学で修士号取得。その後、国立がんセンター研究所特別研究生を経て、1988年米国ワシントン大学生物医学系大学院でPh.D.取得。1989年~1998年九州大学理学部生物学科助手、1998年~2004年名古屋大学理学研究科生命理学専攻独立助教授、2004年より名古屋大学理学研究科生命理学専攻教授となり、現在に至る。


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「大学院時代の経験は、研究生活のスタンダードになっている」と語る森氏。アメリカでの研究時代、ノーベル賞受賞者たちがすぐそばにいて所属研究室を出入りしている、刺激を与えてくれる環境そのものだった。「研究のスタンダードがその時に自然と身に付いた」という森氏は、その経験のままに若手研究員らの指導に当たっている。
アメリカはポスドクがどんどん研究成果を生み出しており、スピードがある―それに立ち向かうために、と勢いを見せる森研究室。益々のご活躍に期待したい(梅)



小林 曉吾(こばやし きょうご)氏【名古屋大学大学院 理学研究科 研究員】

2009年名古屋大学理学部生命理学科卒業、2011年同大学大学院理学研究科博士前期課程修了。20114月~20143月まで日本学術振興会特別研究員(DC1)として、名古屋大学大学院理学研究科博士後期課程で研究に従事する(満期退学)。20144月より現職。


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「無駄なことなんて一つも無いんだ、と思いました」と語る小林氏。研究生活は、人生の教訓そのものであるように、若手研究員らは強く伸び伸びと成長している。ここでの経験は、転用可能な能力として、広く社会でも活躍できるものとなるだろう。
第一線で活躍する、とある研究者に「名古屋大学は若手が元気だ」という褒め言葉を頂いたことがある。こんな激励はないぞ!と、小林氏はじめ若手の皆にエールを送りたい(梅)



情報リンク集

Kyogo Kobayashi, Shunji Nakano, Mutsuki Amano, Daisuke Tsuboi, Tomoki Nishioka, Shingo Ikeda, Genta Yokoyama, Kozo Kaibuchi, and Ikue Mori.
Single-Cell Memory Regulates a Neural Circuit for Sensory Behavior.
Cell Reports. 14: 11 (2016).
(First published on December 24, 2015; doi: 10.1016/j.celrep.2015.11.064)

Ikue Mori and Yasumi Ohshima.
Neural regulation of thermotaxis in Caenorhabditis elegans.
Nature. 376: 344 (1995).
(First published on July 27, 1995; doi: 10.1038/376344a0)

Koutarou D Kimura, Atsushi Miyawaki, Kunihiro Matsumoto, and Ikue Mori.
The C. elegans Thermosensory Neuron AFD Responds to Warming.
Current Biology. 14: 1291 (2004).

(First published on July 26, 2004; doi: 10.1016/j.cub.2004.06.060)

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