近代思想史の大家、99歳の悔恨

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  • 2018/06/13

国際機構

辻篤子特任教授(「名大ウォッチ」より転載)

 名古屋大学東山キャンパスの南端、山手グリーンロード沿いに、木立に囲まれて大学らしからぬたたずまいを見せているのが名古屋大学ジェンダー・リサーチ・ライブラリである。昨年11月に開館した。その名の通り、ジェンダー関係の書物を集め、研究や交流の拠点となることをめざしている。目玉の一つは、女性史研究のパイオニアである水田珠枝・名古屋経済大学名誉教授の蔵書約7000冊を収める「水田珠枝文庫」である。多くの人に利用してもらいたいとの思いから寄贈されたものだが、他ならぬ水田さん自身がこのところ通って来ている。現在、新しい本の原稿を執筆しており、そのための資料としてライブラリに収めた本が必要になったという。

gender_library.jpg名古屋大学ジェンダー・リサーチ・ライブラリの1階にはカフェもあり、にぎわいを見せている。

 その原稿は、夫である水田洋・名大名誉教授の依頼によるものだ。洋さんはいうまでもなく、アダム・スミスやトマス・ホッブズらを中心とするイギリス近代社会思想史研究の第一人者として広く知られる。多くの弟子を育てる一方、市民運動にも積極的に関わってきた。名大を代表する学者の一人として特別教授の地位にあり、日本学士院会員でもある。その洋さんが、著書「社会科学の考え方」(講談社現代新書)の再版に当たり、「女性を抜きにした近代思想史は不完全」として、女性が関わる部分を珠枝さんに書いて欲しいと頼んだのだ。「男だけを見ていては社会科学を包括的に研究することにならない。自分がやってきたことがいかに問題であるか、90歳を越えてようやくわかったみたい。遅いわねえ、と言ってるんです」と珠枝さんが笑いながらいう。
 こうしたやり取りがあったと聞いて驚いた。この秋に99歳になる碩学が、これまで積み重ねてきた自らの研究成果をその一部にせよ否定するに等しい。勇気を要することであるに違いない。理論を問い続ける姿勢も並大抵ではない。
 背景には、女性をめぐる今の社会状況がある。女性の問題をきちんと考えなければ、これからの社会は立ちいかない。珠枝さんの言葉によれば、「時代の危機的状況」がある。そこでの社会科学の責任は大きい、という点で2人は一致する。
 それぞれ百寿と卒寿を目前に、倦むことなく歩み続けるこの稀有な研究者カップルが今、世に問おうとしていることは何だろう。

mizuta.jpgライブラリの水田珠枝文庫に収められた蔵書を背にした水田珠枝・名古屋経済大学名誉教授

 東京商科大学(現一橋大学)を卒業して母校の特別研究生をしていた洋さんは、すぐ隣の津田塾専門学校(現津田塾大学)から聴講に来ていた英文科在学中の珠枝さんと出会い、珠枝さんの卒業後すぐに結婚した......>>続きを「名大ウォッチ」で読む。

辻篤子(つじ あつこ):1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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